移り気MAX

記憶障害なのか、ただの移り気なのか。明日忘れないために今残そう。テレビ。映画。音楽。特撮。マーケティング。メディア。

評判になっているゼクシィのコピー。実は様々な業界に適用できる説。

 今年のゼクシィCMのコピーが話題だけど、ゼクシィ側にとって、そこまでこれまでと違うスタンスに立ったものじゃないんじゃないかな、というのが前の記事でした。

utsurigimax.hatenablog.com

 

 しかし、このCMで提示されたコピーの論法は、実はいろんな業界に適用できるのではないか、というのが今回の話です。

 

 今回のゼクシィCMコピーの論法は、相対化でした。つまり、

結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです

という表現は、世間の環境を一旦相対化し、俯瞰して見たうえで、それでもなおその選択肢を選び取る対象を称揚する、という方法と考えられます。

 

 この方法は、商材やサービスのターゲットに対して、敢えてそれを選ぶあなたは素晴らしい、とアゲてモチベーションを高めつつ、ターゲット外のうるさがたに対し、 自分たちに不利かもしれないのに、正確に市場を描写してエライ、とホメられる二重の効果を生み出します。

 

 この方法が使えるのは、これまで当たり前の選択と思われてきたものが、あたりまえでなくなった業界に対してです。「結婚」はその最たるもの、と言っていいでしょう。

 

 そういう意味で例えば「クルマ」は本コピーのアプローチが使える商材といえます。特に都市部では、持たなくても生活が成り立つわけですから。

 クルマを持たなくても、普通に暮らしていけるこの時代に、私はクルマに乗って出かけたいのです。

クルマを持つことは不可欠ではないけれど、持つことで出来る事が格段に広がる、そんな生き方を選び取る事を称揚する。若者のクルマ離れ対策に活用可能といえます。

 他には「お酒」 お酒を飲まなくたって、楽しく時間を過ごせるこの時代に、私はお酒を飲んで楽しく過ごしたいのです。

 「持ち家」 無理して家を建てなくても家族でいられるこの時代に、私たちは、家を建てたいのです。

 一見合理的ではないけれど、選ぶことで、合理を超えた「幸福」を得られるというロジックが成り立ちそうな業界に適用可能といえるのでしょうか。逆に言えば、合理的に考えると選ばなくてもいい、過去のアタリマエが、消費の現場に数多く鎮座している、ということを浮き彫りにした、といえなくもありません。

 

 いずれにせよ、このタイプのアプローチ、手を変え品を変えしばらく流行るのではないか、と思った次第です。

評判になっているゼクシィのコピー。いやいやこれは今まで通りの既定路線だと思うよ、という話。

毎年恒例のゼクシィCM。今年のCM内で扱われているコピーが話題になっている。


ゼクシィCM「私は、あなたと結婚したいのです」風船篇

結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです。

 

 「結婚」を押しつけていない、多様な生き方を肯定しているといった意見をもって支持されているこのコピー。確かに、『結婚』の絶対量が増える事でより多くの利益を享受できるリクルートにとって、世の環境を相対化させる、少し立ち止まらせるようなアプローチは、一見理に反している。

 本コピーの前に提示されるセリフである「70億人が暮らすこの星で結ばれる。珍しいことではなくても奇跡だと思った」という部分も、リクルートの顧客である、結婚する2人の出会い自体を一旦相対化させている。

 この事実をもって各所が騒いでいる。やれ、新しいだ。リクルートが言うのエライ、だ。などなど。しかしこのアプローチ、確かに論法としての新しさや秀逸さはあるものの、当のリクルートにとってはたいしてこれまでと違う事をしたという感覚はないのではないだろうか。

 

 なぜならこのアプローチ、件のコピーもその前の台詞もいずれも、結婚という選択を『選び取っている2人』を称揚しているものだからだ。要は、敢えてその選択(結婚)をした2人はエライし、尊い。とアゲるアプローチだ。

 それは、ゼクシィが顧客にしているのが、結婚するかどうか迷っている人たちではなく、結婚を決めた、プロポーズの後の2人であるということを考えると非常に納得できる。ゼクシィが長きに渡ってタグラインとしているのは「プロポーズされたら」である。

 あくまでポスト・プロポーズ層を顧客として扱うのだから、世の環境を相対化させようが、結婚に向かってまい進している2人にとっては杞憂である。むしろ、2人の(あえての)選択を力強く後押しすることで、ゼクシィを買って式場を決める強いモチベーションを継起したい、という腹積もりだろう。つまり、これまで通りの「プロポーズされたらゼクシィ」を強化するアプローチに他ならない。

 

 多分今回明確に違うのは、外野の反応だ。ゼクシィの顧客でない人たちが、結婚だけを唯一の解として扱っていない、という相対化アプローチをほめそやしている。実際は、「結婚を選んだ2人、を称賛する規定演技」なわけだけども。

 そういう意味で、この相対化アプローチ、商材のターゲットの内にも外にも目配せできる、非常に強い手段だと感じた。そのあたりを、次の記事に書いてみたい。

 

utsurigimax.hatenablog.com

 

 

「逃げ恥」のタイムシフト視聴対策が、結構スゴイ気がする。

 民放各局の視聴率調査を行うビデオリサーチ社は、この10月から従来の「リアルタイム視聴率」に加え、HDレコーダーなどで録画した番組を後から視聴した「タイムシフト視聴率」を関東地区で調査し始めた。そして2つの視聴率から重複を排除してから足したものが特定の番組の「総合視聴率」と呼ばれるようになった。

 

 この総合視聴率、すでに今クールの連続ドラマにおいて非常に興味深い数字を出している。特にTBS系列で放送中の火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」、通称『逃げ恥』は驚異のタイムシフト視聴率として話題になっている。

『逃げ恥』の好調ぶりは、リアルタイム視聴率だけではなかった。10月3日からビデオリサーチ社がタイムシフト(録画再生)視聴率の本格調査を始めたが、TBSが明らかにしたところによると、初回のタイムシフトは10.6%で、リアルタイムを超える驚異的な数字をマーク。リアルタイムとタイムシフトを合わせた総合視聴率(重複視聴は除く)は19.5%にも及んだ。 

http://www.cyzowoman.com/2016/10/post_22471.html

 

 

 昨今のドラマ不況、数字の高いドラマが極めて限定的な現状でこのニュースは朗報だ。しかし、このタイムシフト視聴率によって連続ドラマが見直されるようになったとして、その広告価値がまるまる見直されるか、というと疑問が残る。

タイムシフト視聴にはCMスキップ問題があるからだ。自分の経験に照らし合わせても、8割のCMは早送りでスキップされる。スキップされない一部のCMはCM明け直前のものくらいだ(レコーダーの早送り精度の低さゆえに直前のCMから見る必要があるのだ)。

 

 そんな中早速『逃げ恥』はスゴイ手を打ってきた。いやそこまで特別なことではないのだが、よくよく考えると非常に考えられている手だ。

それは、有り体に言えば進化したプロダクトプレースメントとでもいうべきか。つまり、番組の枠内でのブランド告知なのだが、少し考え方を変えれば、ウェブメディアの広告における、純広枠からネイティブ広告への変化にも対応している割と先進的な事例ではないかと思う。

 

 それはこんな感じである。

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  • 登場人物皆でぶどう狩りに行くことになり、石田ゆり子演じるガッキーの叔母で化粧品会社に勤めるキャリアウーマン(ドラマ内の描写から宣伝部に所属)が車を出す。
  • まず、その車がスポンサーである日産の黄色いJUKEなのである。そもそも化粧品会社の40代バリキャリウーマンがJUKEに乗っているということが異常に呑み込み見づらいのだが、JUKEのフォルムが割と外車のSUVっぽいので、知らなければ、あら、あの車何かしら?かわいい!となることは考えられる。(恐らく狙っていると思う。)
  • ひとしきりぶどう狩りの中でJUKEを乗り回すゆり子と一同。その途中で、イケメン俳優の大谷亮平が役のままにJUKEを紹介するミニコマが突如出現するのだ。こちらもCMに入るのでなく、あくまでドラマの流れの中で行われる。

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 どうだろう。劇中で石田ゆり子が黄色いJUKEを運転し印象を残しつつ、実はあのカワイイ車は日産のJUKEでした、とイケメンが明かすミニコマを挟むぬかりのなさ。若年女性を中心とするであろうドラマのターゲットに上手くJUKEをプレースメントすることに成功しているのではないだろうか。

 劇中での車の登場+ミニコマだけ、といえばそれまでなのだが、視聴者の属性に合わせて非常に周到に計画されていることがわかる。

 昔から日産はドラマやバラエティの番組内に自らを使わせるプロダクトプレースメント的手法を多く使ってきた会社ではあるが、これは鮮やか!かつタイムシフト視聴に対応した極めて綺麗な事例だと感じた。

 

 

ドラゴンボール超が、もはやバトルアニメでなく時間SFの様相を呈している。

ドラゴンボール超が凄いことになっている。

 

ドラゴンボールといえば、鳥山明先生が1984年から95年まで少年ジャンプ誌上で連載されていたバトル漫画とそれをアニメ化した作品である。知名度は恐らく100%に近いだろう。海外人気も高く、終了後も海外で同人的続編が描かれ続けていたくらいだ。

そんなドラゴンボールは昨年から、ドラゴンボール超の名の下、アニメとして正式な続編が放送されている。漫画の最終編である魔人ブウ編と数年後の最終話の間をつなぐ時間軸の話であり、ストーリーに関しては作者がタッチしていなかったドラゴンボールGTと違い、今回は鳥山先生がストーリーをきっちり監修している。

お話としては、魔人ブウ編から登場した「界王神」に始まるDB世界の"神"の世界観を拡張し、主人公孫悟空のいる第7宇宙を含めて、計12の宇宙とそれらを創造と破壊の面でそれぞれ統べる「界王神」「破壊神」の存在、さらにそれら全てを統べる「全王」の存在を設定した上で起きるこれまで以上にスケールの大きい展開を扱っている。

 

そして現在放送されているシリーズが「未来トランクス編」である。

これは、原作の「人造人間・セル編」で登場した、未来からやってきたトランクスが帰って数年後、未来世界に再び現れた謎の強敵「ゴクウ・ブラック」を巡るストーリーである。セル編・魔人ブウ編で扱われてきたアイテムをうまく回収しながら展開するそのストーリーは、これまでのドラゴンボールのどれよりも時間SFの様相を呈しており、「ゴクウ・ブラック」が一体何者なのか?という正体探しをお話しの推進力として進む様は、これまでにないドラゴンボール観を示してくれる。

 

そんな中、まさに現在イシューとなっている「ゴクウ・ブラック」の正体が明らかになるのが、来週10月2日の放送なのである。ここからはネタバレ込みで今後どうなるかを予想したいので。ネタバレNGの方は申しわけありませんがご遠慮ください。。。

 

 

 

これまでの話をざっくりと整理すると

  • 未来トランクスのいる世界に、悟空そっくりな「ゴクウ・ブラック」が現れる。
  • ゴクウ・ブラックは未来世界を破壊。トランクスは犠牲を払いながらも、孫悟空ベジータのいる現在世界にタイムマシンで移動する。(トランクスのいる未来世界は、悟空もベジータも既に死んでいる並行世界)
  • 現在に移動したトランクスを、ゴクウ・ブラックが界王神しか使えない時間移動アイテム「時の指輪」を使って追ってくる。その気や闘い方は第10宇宙の界王神見習いザマスに似ていた。ブラックは未来世界に引き戻されてしまう。
  • ブラックとの繋がりを探るため悟空たちは第10宇宙に移動。ザマスは人間に対して歪んだ正義感を持っていた。しかし、ザマスとブラックを結びつける証拠は発見できなかった。
  • ブラックを倒すため、悟空とベジータはトランクスと共にタイムマシンで未来に向かう。ブラックはスーパーサイヤ人ロゼという新形態に変身。圧倒的な力を見せつける。さらに、そこに不死身となったザマスが現れ、悟空たちは窮地に。
  • 命からがら悟空たちはタイムマシンで現在に戻る。そんな中現代ザマスは、宇宙の全てを見通す預言者ズノーに、あらゆる願いの叶う「スーパードラゴンボール」そして「悟空」について尋ねていた。
  • 改めてザマスを疑った悟空たちは再び第10宇宙へ。ザマスが自ら界王神になり、時の指輪を操作するために、現界王神ゴワスを殺そうとしたところを確認した悟空たちは、現代ザマスを破壊する。この破壊は、第7宇宙の「破壊神ビルス」によって行われれた。ビルス曰く神による神の破壊は時空を超えて影響を及ぼす。つまり並行世界かつ未来であってもザマスは存在が破壊されたはずであると。

という極めて複雑な話になっているのです。そして、次週予告で、結局未来世界のザマスもゴクウブラックも特に影響なく存在していることが示されて、今に至るという状況なのです。

あらゆる意味で引っ張りに引っ張ってきたゴクウ・ブラックの正体は果たして誰なのか?番組内(と現在連載されている漫画)の情報から推理してみようと思います。

 

  • ゴクウ・ブラックの口調が貴族的。言動が選民的である。
  • ゴクウ・ブラックが心臓を押さえて苦しむ描写がある。
  • ゴクウ・ブラックはザマスと近い気を纏い、近い闘い方をする。
  • ゴクウ・ブラックの戦闘力は進化している。
  • 現代のザマスと並行世界の未来のザマスの2人が存在する。
  • 未来のザマスは不死身。
  • セル編終了後、未来に戻ったトランクスは、魔人ブウを復活させようとする魔導師バビディと魔界の王ダーブラと戦う。その際第7宇宙界王神シンは命を落とす。
  • 界王神と破壊神の命は連動しており、界王神が死ぬと破壊神も死ぬ。

 

まずポイントは、未来世界にはゴクウ・ブラックの他に不死身のザマスも存在しているということ。不死身であることから間違いなくスーパードラゴンボールを使っているはず。この時スーパードラゴンボールによる不死身化は、破壊神による破壊を免れるということであれば不死身ザマスが残っているのは理屈が通る。現代ザマスは破壊されているから、この不死身ザマス自体は未来ザマスなのだろう。未来ザマスが現代ザマスとは別の方法でスーパードラゴンボールの情報を掴み、不死身化を成し遂げたと考えるのが筋だ。

そうなった時、なぜ第7宇宙に第10宇宙の界王神見習いがいるかと言えば、これはおそらく未来トランクスとバビディダーブラとの戦いで、未来の第7宇宙界王神が死に、結果未来の破壊神ビルスも死んだからだろう。両者が死んだことで、第7宇宙に影響を及ぼすことが容易になったことでやってきたと考えられる。(ちなみに漫画版では、12の宇宙全ての界王神・破壊神はすでに死んでいる設定になっている。)

では、その時のブラックの正体である。ここがなかなか難しく。悟空要素(進化する強さ・スーパーサイヤ人化)とザマス要素(言動・気)が混ざっているため、どちらか単独が変化している姿というのは考え難い。

まず並行世界の未来では悟空は心臓病で死んでいるので、胸を押さえていた点からも、器は未来世界での悟空(の死体)を使っている可能性が高い。ではその器に入っている魂は誰か?(ここで、器への入り方は 1.ポタラを使ったフュージョン 2.スーパードラゴンボール が考えられる)

現代ザマスの可能性は、既に彼が破壊された時点で閉じられた。あるいは、不死身化していない他の並行宇宙のザマスの可能性も絶たれた。

とすると、考えられる可能性は並行宇宙の未来世界の「ゴワス」ではないか。気は実際には第10宇宙の界王神に似ており、ザマスにも近かった。闘い方としてはザマスの闘い方をゴワスが人知れず学習していたとか。

そして、現代と違い、ザマスがゴワスを説得し同じ考えに引き込んだ、か実はゴワス自身がザマスと同じ考えを持っており、ゴワスが少しずつザマスを洗脳していた、という黒幕説。

いずれにせよ、ザマス自体がブラックにはなりえないだろうから、考えられる無理のない対象は彼になるのではないだろうか?

 

とにかく今週の日曜には正体がわかるのだ。すっかり時間SF要素が強くなり、その中で正体を推理する推理ゲーム的な性質も帯びたドラゴンボール超。今週どうなるかが、本当に気になる!

電通の過剰請求はなぜ起きたのか? 〜日本の広告業界の「精神的」「構造的」特殊性からの推察

www.nikkei.com

9月21日、オーストラリア系の広告業界メディアAdNewsに掲載された電通のネット広告における過剰請求問題は、23日、2日が経って日経新聞に掲載された。

運用型広告における虚偽・過剰請求ということで、運用担当者のモラルや知識不足など人材育成の視点での原因を指摘する声があるが、私はこの問題は、もっともっと根深い、ザ・日本の総合広告代理店のあり方、にその本質があると思う。

電通トヨタ、という気まぐれコンセプトでも描かれた「ザ・日本の広告業界」感のある2者の間で起きた問題は、古き"良き"代理店と広告主の関係性の、終わりの始まりを感じさせる。

正直、多少邪推な部分もあるとは思うが、私自身、日本の広告業界、メディア業界のいずれにも関わり、かつ海外のメディアエージェンシーやグローバル企業と仕事をしていたこともある経験をもとに、本件はなぜ起きたのか?その日本的総合代理店の商慣習に起因する、根深い理由について考えてみたい。

※正直長いです‥根気をもってお付き合い下さい‥ 

 

1.過剰請求問題の整理

まず、今回の過剰請求事件、ポイントと思うところを以下4点にまとめる。

  1. ネット広告の掲載に際して掲載実績の虚偽申告が起き、過剰請求も確認された。
  2. 特に運用型広告の請求において、不適切な業務が行われた。
  3. 広告主(トヨタ自動車)の問い合わせによって、問題が発覚した。
  4. 4年間で633件、111社の広告主に対して上記のような不適切な業務が発生した可能性がある。

1に関して、何故虚偽申告をしたのか?については考えを後述する。

2については、ネット広告のならでは、と言える。そもそも運用型広告とは、特定の成果(露出/視聴/クリック等)に対して単価が設定されたもので、成果地点を計測する技術が進んだ、ネット以降にその存在感が大きくなった出稿形式である。一方ネット以前は、特定の広告枠(新聞/雑誌等)に特定の時間・量出稿することに単価が設定された予約型広告が主流の形式であった。

枠と単価が連動する予約型は出稿金額を欺くことがとても難しい。広告主も当然枠ごとの単価を承知しているからだ。しかし運用型については、特に広告主のビジネス成果に直結しない「広告露出量(Imp等)」を成果地点とする場合、広告主を欺くことがそこまで難しくない。実際にネットの広大な海の中で、自社の広告バナーが何回(正確には何Imp)露出したか確認することは不可能だ。(逆に広告主のビジネス成果に直結するのは、クリック数、インストール数等を成果地点とする運用型である。これらの指標は広告主が直接管理することも多く、欺きづらい。)

今回、本件発覚の発端となったのがトヨタ自動車であることもこのことを物語っている。トヨタは、販売手段を自社で持たない。販売会社は自社でなく関係会社である。ゆえに、自らのブランドを広く知らしめ販売会社の販促支援をするのが、トヨタの広告宣伝である。そのため、運用型広告を出稿するとしてもクリックやインストールよりも露出量の最大化を主目的として実施するのが自然である。

そこで3である。トヨタ自動車は本件を自ら認識し、電通に問い合わせる形で問題が顕在化した。トヨタは何故本件を検知することができたのか?

トヨタは2015年、デジタルマーケティングの推進に本腰を入れるにあたり、元々広告宣伝機能を持ったトヨタマーケティングジャパンではなく、トヨタ本体内で機能強化を図った。

business.nikkeibp.co.jp

独自のDMP(自社で保有するデータを集積・加工しマーケティング利活用可能にするプラットフォーム)の構築も含め、Google等のIT企業からの出向を含め人材を名古屋のトヨタ本体に集中させ始めた。これには、いわゆる広告宣伝領域のみならず、マーケティング活動の全ての意思決定にデジタルデータを活用していく強い意志が感じられる。

実際、既存の顧客データやデジタルの出稿データを組み合わせてデータを統合的にマーケティングに生かしていく試みは、グローバル企業の多くが実施し始めていることだ。その中で、トレーディングがリアルタイムで、取引が複雑になりやすい運用型広告は代理店に任せずにインハウス(自社)化するという流れも進んでいる。

推測するに、トヨタはこの組織の再編・強化に伴い、過去の運用型広告のパフォーマンスの棚卸など行ったのではないだろうか。その結果、金額や数値が合わない結果が散見され本件の発覚に至ったのではないか。であるならば、この問題は国際的なデジタルマーケティングの流れの中、いつ発覚してもおかしくないことだったかもしれない。

最後に4の話が出たことで本件は、特定の誰かが私腹を肥やすために行った着服・横領の類ではなく、これまでの総合代理店ビジネスとデジタル広告との間の構造的な問題であることがわかる。つまりこれは、特定の営業局や特定の個人に起因する問題ではない、ということだ。

 

2.日本の広告代理店ビジネスの"精神的"特殊性とは?

ここで、本件について最初に取り上げたAdNewsの記事に立ち戻ってみる。実はこの記事には、本件のようなことが常態的に起きる日本の広告ビジネスの"精神的"な特殊性について詳しく書かれている。

www.adnews.com.au

該当する箇所を幾つか抜き出し、コメントを加えると。

 

日本の企業文化全般に言えることとして「信頼」と「長期にわたる関係性」に基づいてビジネスが行われることが語られている。電通トヨタのCEOが互いに非常に近い関係にある、という踏み込んだ言及もサラッとされている。この中で「長期にわたる関係性」というのは特に大きなポイントである。

Japanese business culture is heavily based on trust and long-standing relations. Dentsu's top brass, including president and CEO Tadashi Ishii, are known to be very close with Toyota leadership and CEO Akio Toyoda.

 

特定の代理店が特定の広告主を”扱い続ける”ことはしばしば数十年に渡り、両者の関係性・立ち位置が極めて"曖昧"になると述べられている。「長期の関係性」とは単に長く付き合うこととは違い立場を曖昧にしてしまうことだ。

Another senior agency source familiar with the Japanese media and advertising industry says agency tenures are typically so long, up to several decades as in the case with Toyota, the client-agency relationship becomes “extremely blurred”.

 

日本の企業人と仕事をすると、時にその人が広告主なのか代理店なのかがわからないことがある、と書かれている。更に、その現象が「透明性を虐殺する原因」であると強烈な言葉を繋いでいる。

“I have worked with individuals (in Japan) where I genuinely haven’t known if they were the client or the agency,” the source says. “It’s a recipe for transparency carnage, for a start.

 

上記の様なことは内資の総合広告代理店に所属していた者であれば、非常に実感があることではないだろうか。

総合代理店の中には、数十年に渡り同じ広告主を担当し続けている営業部長がザラにいる。彼らは常に得意先の人事情報を注視し、用があってもなくても得意先に出向き、休日も共にゴルフをする。公私共に渡る濃厚な人間関係を築くわけだ。こうした関係性の中で、情実的なビジネス機会が発生したり、広告主自身が代理店のパフォーマンスを検証し精査する力が削がれたりすることは当然起こりうることだろう。*1 

そう考えると、本件の遠因となっているのは、日本の代理店と広告主が「情実的」に長期的な関係を結び、互いを検証しあえなくなるような"精神的"な特殊性を持っていたから、と言えるのではないだろうか?

なんとなく、まあいいか、とちょっとした不正を行える、あるいは行っても許される精神的土壌ができていたため起きた微細な不正の積み重ねが、過去であれば検証されなかったのに、広告主自身のあり方の変化によって検証され発覚したのが本件でないか、と推察する。

 

3.日本の広告代理店ビジネスの"構造的"特殊性とは?

上では、日本の代理店ビジネスの精神的特殊性を見た。要は軽微な不正がなんとなく行えてしまうような、広告主との情実的な結びつきの強さがある、という話だ。これは付き合いの長いクライアントほどその傾向が強い。

だが、そもそもなぜそんな不正(過剰請求)を行ったのか?そこには日本の総合広告代理店の組織構造的な特殊性が横たわっているように思う。

では電通博報堂のようないわゆる日本の総合広告代理店が世界的に見て特殊な点はなんだろう?

端的に言えば、その「総合性の高さ」である。

日本の総合代理店は、あらゆる広告を扱うことができる。テレビも雑誌も新聞も、いわゆるマスメディアから、ウェブ・モバイルの枠型広告も運用型広告もなんでもだ。そして、メディアの扱いのみならずクリエイティブの制作、イベントの実施まで担うことができる。いわば広告の総合デパートである。

グローバルを見渡してみると、こうしたなんでも扱える代理店というのはあまり存在しない。メディアに関しては、特にデジタルは高度に専門化したブティックが総合的なメディア代理店とは別に存在していることが多い。さらに、メディアとクリエイティブの両方を扱える代理店、というのもあまり存在しない。クリエイティブを担うのは通常、独立したブティックである。 

日本の総合代理店は、広告主からしたらとにかく便利なのだ。グローバルでは、広告主側がメディアやクリエイティブを、その時々のマーケ戦略に合わせて個別に発注し統合するが、日本においては、広告主が一度マルっとオリエンすれば、すべてを統合した提案を返してくれるのだ。

私は、この「総合性の高さ」がゆえに過剰請求が起きたと考える。 要は複雑に入り組んだ案件全体の整合性を保つために、部分的に問題のあるレポートや請求が発生した、ということである。とはいえ、これだけでは実態が掴めないと思うので2つの事例(想像だけど)をあげてみたい。

A.統合型なメディア提案

さて、通常電通博報堂のような総合広告代理店は、小さな金額規模の広告取引をあまり受けない。例えば100万円でバナー広告を運用してくれ、といったオーダーである。こうしたオーダーはネット専業の代理店に流れることが多い。総合代理店からしたら「上がり」が小さすぎるからだ。それに、総合代理店の営業職は、広告の運用者というより、案件を上手に裁くプロデューサー的な側面が強い。単一のメディアを活用した少額な提案は、彼らからすれば扱いづらい割に上りが少ないのだ。

では、総合代理店にとっての華は何かといえば、統合的なメディア取引である。テレビ、ネット、雑誌など複数のメディアを活用して統合的な広告運用をするケースである。例えば、トヨタで言えば特定の車種のキャンペーンがこうしたケースに当たる。これはトータルでの金額規模が大きいし(特にテレビCMが含まれる場合)、タレントを使った派手なものになることも多いため、営業として是が非でも担当したいものである。

こうした統合型のキャンペーン、かつてはテレビに雑誌や新聞を組み合わせた程度だったのが、ネット広告の市場拡大、技術進歩とともに複雑化が進み、現在では予約型の広告(雑誌や新聞等)と運用型の広告(ネット、モバイル)の組み合わせとなることが当たり前となった。

ここで重要な要素が、予約型の場合、期初の予算がキャンペーン終了時に変わることはないのだが、運用型の場合「あり得る」ということである。

改めて振り返ると、予約型は特定の広告枠に一定量・期間出稿することに単価が設定されているものであった。広告を出すことそのものに単価が設定されているのだから、見積もりが変化することはありえない。

一方で運用型は、1成果地点に単価が設定されているものだった。運用担当者は与えらえた期間、与えられた金額で最良のパフォーマンスを出すように広告を文字通り運用する。結果は、終わってみなければ確定しない。ここで考えるべきは、期間内100万円で運用してくれ、と言われて広告を出したところ、枠が逼迫していたなどの理由で、100万円分の広告が掲出できず、例えば98万円分しか出なかった、ということだ。

キャンペーンが終了しトータルの請求を行うとき、上の例でいけば予約型は金額が事前の見積りと合っているわけだが、運用型は合っていないことになる。このとき、総額が10億円のキャンペーンで発注され、実態として運用型のみ数万円下振れていたとき、営業担当者はどうするだろうか?もちろん正直に請求し、完全に発注の通りに運用しきれなかったことを詫びるのが普通だろうが、数万円の下振れ分だし、過剰申告してでもおさまりを良くした方が角が立たない、と考える人もいるのではないか?

実際大きな金額の中の数万円だし、先に述べたように成果地点が「露出」であれば確認のしようもないわけだから、このようにしようとして、実際にした人がいたのではないか、と推測する。代理店の営業は非常に面子を重視することからも、悪意なくこのような方法をとったケースが複数あったのではないかと想像する。

B.メディアとクリエイティブが一体化した提案 

前述の話は、メディアプランニングの高度化を扱っていた。実際代理店の売り上げの大きな部分はこのメディアの上がりによって成り立っている。しかし、代理店にとって重要なもう1つの要素が「クリエイティブ」のプランニングである。つまり、どんな広告を作るか?という部分だ。

通常企業で特定商品のキャンペーンが予定されている時、その扱い代理店について競合プレゼンがなされる。そこではクリエイティブのプランとメディアのプラン、両方を提示し、その内容の優劣を競うのが一般的である。本来、クリエイティブとメディアは独立して評価がなされるべきだが、ありがちなのが、プレゼン内容の7割はクリエイティブの説明に終始し、メディア部分は少しの時間しか与えられないか、資料を読んでおいて欲しい旨言われるか、という非対称な状況である。しかし広告主も、クリエイティブ部分を積極的に評価し、クリエイティブが勝っていた代理店にメディアの扱いも一任することが日本国内では慣例的に多い。だからこそ、総合代理店におけるクリエイティブセクションは非常に強い立場を持つ。そして、彼らはそこへの職人的こだわりが強いことから、しばしば見積もりどおりの制作費を超過する。

制作費の超過をどう賄うか?クオリティアップのため、と広告主を説得し予算を上げる方法も当然あるだろうが、前述の通り、国内のキャンペーンプレゼンでは、クリエイティブの扱いを獲得することでメディアの扱いが付いてくることも多い。そして扱い代理店はそのトータルのバジェットを管理することになる。その中で、実際のメディアへの出稿を過小にして、制作費の超過分をそこに付け替える、という操作をすることがあったのではないか。運用型広告であれば、メディア仕入れ値を抑えることなくこうした行為が行えてしまう。

 

4.まとめとして。日本の総合広告代理店ビジネスの終わりと始まり。 

上に述べたように、私は今回の過剰請求事件は、日本の総合広告代理店が持つ「精神的」「構造的」な2つの特殊性に起因していると考える。

ビジネス上のなあなあが成立しうる、精神的に濃厚な結びつきを広告主と結び、そんな環境下で高度化した統合的広告提案の帳尻を合わせるため、悪意なく軽微な不正を実施する。極めて日本的なビジネスアフェアである。

これは裏返せば、広告主の側もこれまで、いわゆる「マルっとした提案」を代理店に求め続けすぎたことに原因があると言える。グローバルなマーケティング会社は、広告主の側も機能部署が細分化しているが、日本ではしばしば「宣伝部」が全てを担う構造になっている。ゆえに一つ一つの専門性が培われず、代理店に丸投げになる構造だった。

広告ビジネスは、かつての古き良き狭義の広告を離れて、ビジネスの成否に関わる高度な局面にまで来ている。特にデジタルはその傾向が顕著だ。ゆえにコンサルティングファームマーケティングの総体を扱う一環として、デジタル広告を扱うケースも増えてきている。

今回は、一足お先に広告主が、そんなぬるま湯から抜け出そうとした結果発覚したことなのだと思う。彼らの方が、より実際的なビジネスの課題として現在の広告ビジネスを捉えているのだ。

日本の総合広告代理店は広告の総合デパートであると書いた。デパートにはデパートの良さがあるのも確かだ。特に広告は、メディア・生活者環境が複雑化すればするほど、様々なメディアとクリエイティブを組み合わせた統合的なアプローチが重要になってくる。専門的なブティックは、一つのジャンルに閉じて詳しいが、統合化には向かない。

今回の件で、総合代理店が広告主との理性的な関係性の中で、総合力・統合力を武器としたプロフェッショナルプロデューサー集団へと脱皮することを強く求める。

*1:ただしこうした、広告主と代理店が長期にわたる堅固で不可分な関係性を構築すること自体は、日本に閉じた話ではないことを付記しておく。実際、グローバルな代理店のグローバル企業との向き合いでもこうした関係性はありうる。私自身メディアの担当者としてシンガポールで、某グローバル企業とミーティングした際は、取り扱いのあるメディア代理店の担当者が同席するのは当然だった。場合によってはクライアントの担当者が同席できず、代理店担当者のみと打ち合わせをしたこともある。

よく知られている話として、通常グローバルな代理店は1業種1社制になっており、特定の代理店は1つの業種につき、1つのクライアントしか受け持つことができない。

日本の総合代理店も近年はセンター制を取り、各センターを独立採算に近い閉じた組織とし、各センターに1業種1クライアントという置き方をすることも出てきたが、逆にグローバルな代理店は、グループ化が進み、グループの名の下に複数の代理店を保有し、グループとして同業種の複数クライアントを扱うアプローチを取っている。

ゆえに、ローカル、グローバル問わずそのクライアントと長期に渡る信頼度の高い関係性を構築していくのは極めて重要なことなのだ。

ただし、信頼性の獲得方法が、クライアントと情実的な関係性を結ぶというよりは、

  • 企業としてディスクロージャーを高める(広告主が代理店を監査することもある)
  • 能力の高い人材を配置する
  • 高いメディア仕入れ能力を発揮する

等理性的で指標化可能なスコアカードによって運用されているという点に違いがある。

90年代から00年代にEMOを聞いてた大学生全員に聞かせたいsora tob sakana

2000年代前半から中盤にかけて大学生をしていて、なおかつバンドサークルに所属をしていたことがあって、音楽に一家言ある自分を演出する一環としてディスクユニオンのビニール袋に教科書を入れて大学に通っていた人間であれば、"EMO"という単語に見覚えがあるだろう。

ちなみにEMOはエモでなくイーモと読む。

 

EMOは音楽ジャンルである。割と捉えどころのないジャンルだと思うが、その名の通りエモーショナルなロック全般を指すと言っていいのだろう。Rites of SpringやFugaziといったハードコアを出自としながら、WEEZERやThe Getup Kidsといったポップシーンでも人気があるバンド、更にはAt the drive inのようなオルタナティブロックシーンとも親和性が高いバンドを含んでおり、当時の大学生が聞くジャンルとして非常に間口が広く、人気が高かった。

EMOは端的に青春であった。ディスクユニオンで旧譜を漁りiPodに入れて、バンド練習のスタジオにチャリで向かいながら爆音で聞く。これ以上郷愁を誘う風景は無いと断言できる。

EMOといえば、夏である。夏の、どこまで高く続く青空を前に、立ち尽くし絶望するボンクラ、それこそがEMOであると勝手に思い込んでいる節がある。Appleseed Castというバンドがいる。そのファーストアルバムのジャケットに描かれた少年の表情、それこそがEMOであると思い込んでいる節がある。

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なんとも言えない表情で唇を噛み締める。空は青く、高く、どこまでも道は続いている。何を言っているかはわからないが、これがEMOである。

前置きが長くなってしまった。EMOはこれ以上無い自らの青春であり、ここ10年はしかし、心のどこか奥にしまわれていたものだった。

 

しかしこの夏、その閉ざされた扉は突然、不用意にこじ開けられてしまった。sora tob sakanaだ。2014年に結成された、平均年齢13歳の少女達4人からなるアイドルグループである。

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え、これってあの頃必死こいて爆音で聴いてたEMOじゃん。

静謐な単音のギターから、不意に激しいドラムパターンに爆音のギターが被さってくる、おまけにピアノのリフまで絡みつく。少しひねくれたドラムパターンの上に少女達の拙い歌声。美メロである。

ここにはEMOの全てがある。いや、当時なかったものまである。スキンヘッドかロン毛のおっさんによる顰め面の歌が、眩い少女達のものに置き換わっている。そして、EMOバンドの代名詞、演奏の下手さが全く感じられない。むしろバカテクだ。流石はハイスイノナサプロデュース。

曲名が「夏の扉」である。これ以上EMOな曲名は無いと断言できる。

比較的初期のEMOバンドには欠点が1つある。アルバムを通しで聴くと、同じような曲ばかりなのだ。4曲も聴けば飽きてしまうこともしばしばだった。しかしこのsora tob sakana、その点は踏襲していない。

間違いなく本年最も重要なアルバムの一つであるセルフタイトルアルバム "sora tob sakana" (https://www.amazon.co.jp/sora-tob-sakana/dp/B01HI92L3O)は飽きさせない。

T1「海に纏わる言葉」はよくEMOバンドもアルバムで1曲目に据えるインストトラックである。そこからの自然な流れでT2「夏の扉」がある。ここまでの流れは前述のAppleseed Castの傑作2ndアルバムMare Vitalisを感じさせる。この時点で年間ベスト級であることは確定する。

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しかしT3「広告の街」は、1度ここまでの流れを裏切る。それはさながら、ポストロックバンドbattlesのインスト曲の上に、アクロバティックな美メロが載ったような曲なのだ。はっきり言って異次元の格好よさだ。ここまで感じていた耽美なEMO様式美は一度脆くも崩れ去る。この曲は本当に格好よすぎる。そしてふと我に返ったところにT4「夜空を全部」が再び夏の日の絶望を蘇らせる。しかしT5「魔法の言葉」はテクノ・エレクトロニカを基調とした浮遊感のあるトラックの楽曲であり、聞き手を再び立ち止まらせる効果を持つ。もちろん名曲である。そう、このアルバムはとかく単調になりがちなEMOアルバムの特性を慎重に回避している。耽美な懐古に行き過ぎない巧みさを持っている。その後の曲もはっきり言って素晴らしいバランスで素晴らしい楽曲を連発している。

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なんというか、ここまでおっさんホイホイなことを書いておいて大変恐縮だが、EMOが醸す"感覚"をここまで踏襲しながら、懐古にならない上に、昨今の、アイドルに特定のジャンルを歌わせてみました、という必然性のない企画には全くなっていないsora tob sakanaは最高だ、ということが言いたいためだけに書いたエントリでした。